わたしには会って謝らねばならないと思っている生徒がいます。
あの時ああしておれば、きっと彼のその後の道は違っていただろうに、なぜ、してやれなかったのかと忸怩たる思いが、今も残っています。
彼は中学3年の2学期の半ばから学校に出てこなくなりました。普通の不登校生と違って、学校に行く間、塾に行くようになっていました。私のそれまでの経験では初めてのことでした。
家庭訪問をして話をしたのですが、「僕には学校へ行って音楽や、美術、体育と言った教科や生ぬるい5教科の勉強する時間の余裕などないのです」と切羽詰まった感じでした。
「もっと余裕をもってやらんと・・・」とアドバイスをしても、1月の暮れから始まる超難関といわれる高校への入試に照準を合わせ、必死に受験勉強をしている彼には通用しませんでした。進路指導は、私の手から離れ塾に任されていきました。
彼は北海道から鹿児島まで受験に行きました。残念ながら一つ落ちると、増々焦り、寝る時間も削って受験勉強に没頭しましたが、結果は残酷にもことごとく不合格でした。
2月の中旬、お父さんも入れて話をしたいと夜に家庭訪問をしました。家は文化住宅(2階建ての長屋に上下それぞれ数軒が入っており、廊下に洗濯機がでている。1970年の大阪万博のころ大阪ではあちこちに見られた)の1室で父母と子ども2人が住んでいる質素な家でした。超難関校を受けさせ、塾にも通わせているのでその質素な生活ぶりは、私には意外に感じられました。
本人は青い顔で憔悴しきっていました。どこの高校に行きたいかと聞いても行きたいところにはいかれなかったので、「どこでもいい」といった感じでした。家の人に塾は何と言っているのですかと聞きましたが、塾も親身に相談に乗ってくれなかったみたいでした。
共稼ぎ家庭で父も母も息子(長男)に大きな期待を抱き、彼のためならと懸命に働いて塾代、受験料、交通費をねん出されたのでしょう。親も今後どうしたらいいのか茫然自失の状態でした。
私も悩みました。残されているのは公立高校です。公立高校の入試では、当時、内申点と入試の点数がほぼ50:50でした。彼は2学期の半ばから登校しておらず、美術や技術家庭科などの作品は未提出、音楽・体育の実技教科や国語、社会、数学、理科、英語の評価は2学期中間テストまでの評価しかわからず、内申点は低くならざるを得ませんでした。
1970年代から1980年代、大阪は人口が増大し高校も増設ラッシュとなりました。大阪の各市に高校ができるという状態の中で、生徒たちが少しでも偏差値のいい高校にと受験勉強に必死になったり、志望する高校に行けず「あほ学校」と自分の通う学校に誇りが持てず卑下したりすることのないようにと「地元高校育成運動」がはじまりました。
私は彼と両親に「地元の高校に進学しないか」と勧めました。彼の成績ならたとえ内申点が低くても実力で入れると確信し、「学校でトップになり大学にいこう。どこの高校に行ってもやる気さえあれば道は開ける」などと無責任なことを言い、私が卒業した京都の高校の話をしました。
私の高校時代、京都では、戦後、蜷川虎三という元京都大学の経済学者が知事を務めており、彼は「15の春は泣かさない」と公立高校は小学区制をとっていました。つまり、住んでいる校区で公立の高校は決まっていました。だから、私の学年は京大に現役で入学するものから、高校を出て家業を継いだり、公務員や一般会社に就職するものまでさまざまな進路を取るものがいました。
彼は地元の高校に進学しました。しかし、1年ほどたってギターをもって音楽をやり始めたと聞きました。そのうちに、家を出ていったということも。
地元の高校へ行けば、彼のことを知っている生徒が多いので「あいつは学校に行かんと塾に行ってがり勉して落ちよった」と陰口をたたかれるでしょうし、私が通っていた高校のように大学進学したいものもある程度いれば、大学の話や将来のことなど共通の話題をもって話せるものがいただろうに、そういう話をできるものも少なく、どんどんと孤立していったのでしょう。
なぜ、あの時に必死になって私学を含めて少しでも彼に合う学校を探してやれなかったのか、なぜ、絶望して投げやりになっている彼にもっと暖かい支え方をしてやれなかったのか。地元高校育成運動というものに引っ張られ、本当に彼のことを親身に考えたのかと自省するばかりです。
今、彼はどこでどのような生活をしているか知りません。15歳~18歳までの心の痛手をなんとか癒すことができただろうか、大きな挫折を乗り越えて新しい道を見つけ歩んでいってくれただろうか。彼が中学を卒業して40年の月日が流れましたが、私はいつも彼のことが気にかかります。
私はこの時に進路指導の恐ろしさをまざまざと思い知らされました。中学の教員を退職した後、大学で教員免許を取得する学生たちに授業をしたとき、私は必ずこの体験を語り、二度とこのような轍を踏まないようにと話しました。
もし、彼に会うことができたなら、まっさきに私は謝罪したいと思っています。
(文責 中野 謹矢)