3年生が1月下旬に転入してきた
1995年1月17日早朝、突然、ガタガタと激しい縦揺れに襲われ、私は布団を頭からかぶり、必死に激しい揺れが収まるのを待ちました。揺れが収まりダイニングの所へ行くと食器棚が倒れ机に寄りかかっており、冷蔵庫は50センチほど前に出ていました。子どもたちの部屋に無事を確認しに行きましたが、長女は本の中から起きだしてきて、部屋中足の踏み場がないような状態になっていました。長男と次男はリビングに出てきて、「すごかったなあ」と言い、テレビをつけると地震の報道に全局切り替わっていました。6400名以上の犠牲を出した阪神淡路大震災でした。
1月下旬、芦屋市から1名の転入生がありました。中学3年生の女子生徒です。
兵庫県の学校はどこも避難所になり授業どころではありません。受験を控えた3年生は特に今まで先生と話してきた進路についての話もそれどころではなくなってしまい、今のことしか考えられず頭はパニック状態になりました。
彼女の家は全壊。1階に寝ていたおばあさんは倒れた壁と家具の間に幸い隙間ができ、一命をとりとめ、父母兄弟は2階で寝ていて無事でした。
結局、家族は親せきを頼って、大阪に引っ越してこられました。
学級日誌には「今日は先生から重大ニュースがあった。芦屋市から転入生が来るらしい。地震での転入なので可哀想だと思った。」(1月27日)「今日は学年末テストがあった。転入生の〇〇さんが来た。テストの日に転入なんてかわいそうだな」(1月30日)とあります。
進路については保護者は確実に受かるところを希望されました。私学についてはまだ試験に臨むような心の状態でないので、3月の公立に的を絞りました。クラスの生徒たちは大変な状態であることを知っているので、いろいろな生徒が話しかけ励ましました。
卒業の文集に彼女は「いろいろ不安でしたが、いろんな人が話しかけてくれてうれしかったです。教室の中で話してる時が1番クラスに溶け込めました。こういう時は転校生という事を忘れられて自分自身本当に楽しく過ごせました。本当に、本当に、本当に!短い間でしたが仲良くしてくれてありがとうございました。最後まで仲よく接してしてくれたみんな本当に感謝しています。本当に楽しい数週間でした。Hope
everybody will be happy!」と書いていました。
2月中旬、彼女に案内してもらい希望者参加で彼女の学校と家を見に行きました。水を避難所に持っていこうと計画していましたが、避難所の学校の教頭さんから「たくさん集まっているので必要ない」と言われ、まずは大災害の現場を自分の目で見て実感するとともに自分は何をすべきか考えてもらう場にしました。
彼女の学校のグランドは真ん中に大きな亀裂が生じ、校舎のところどころにひびが入っていました。学校の前の家は軒並み1階部分がなく2階部分が傾いて道の方にせり出していました。生徒も私も何も声が出ませんでした。
無事彼女は公立高校に合格し、3月に卒業していきました。あれから、今年で30年。たった数週間の在籍でしたが、いつも地震が起こると彼女のことを思い出します。
(文責 中野 謹矢)