教員生活を終えて10数年がたちますが、ふと「あの子は今どうしているだろうか」と思い出される生徒がいます。その子たちのことを、何回かにわたって書いていきたいと思います
〇〇中のエジソン
私が教頭で勤務した学校で、いつごろからか「〇〇中のエジソン」と呼ばれていた生徒がいました。
彼は中学校に入って少しして不登校となり、学校にはほとんど顔を出すことがなく、私がその学校に赴任した時には中学3年生でした。
ある日の夕方のこと。部活動も終わった職員室がにぎやかで校長先生もその話の輪にいました。その話の輪の中心に色白で小柄なさっぱりした感じの私服姿の生徒がおり、先生方と和やかに話をしていました。それが最初に彼を見たときでした。
校長先生はその子に壊れたビデオレコーダーと掃除機をわたし、「これを直してきてな」と言い、彼はそれらをもってそそくさと職員室を出ていきました。
校長先生に聞くと「彼は手先が器用で職場体験の時だけは嬉しそうに登校してきたんや。体験場所は三洋電機。後で担任が職場を回ったら修理部門で嬉々としてはんだごてを握って作業をしており、職場の人がその器用さに感心して、卒業したらうちに来てなといったとのこと。電気のことは詳しく、電化製品ならほとんど直してくれる。時々、生徒がいなくなった頃を見計らって、職員室の窓ガラスを庭からコンコンとたたいて合図を送り職員室に入ってくるのや」
それから数日して、外は真っ暗で明々と蛍光灯のともっている職員室の窓ガラスをこんこんとたたく音がして、そちらの方を見ると修理したものを抱えた彼が立っていました。それからは私がコンコンの合図で職員室を出て彼を迎え入れる役をすることになりました。
何があり、そうなったのかわかりませんが、同年代の生徒たちとは会話はできません。だから暗くなり生徒がいなくなった頃を見計らって学校に来ます。
「どうして電気に詳しいの?」
「電波科学という本を読んでいるから」
「直すには部品がいるけどどうしているの」
「廃品回収の日を覚えていて、月曜はどこどこ、火曜はどこどこという具合に。自転車に乗ってその日にその場所に行ったら、使えなくなった電気製品が放ってある。それをひらって帰り、いる部品を仕分けして使うのや」
彼は学校に来るより一人で捨てられた電気製品を持ち帰り、パーツを手に入れて自分の作りたいものなどを制作したり、壊れたものを修理して動くようにすることの方がずっと楽しかったのでしょう。
ある日、仕事帰りに彼の家に寄ってみました。家の前には電化製品の残骸が山のように積んであり、近づくとパッと電気に照らされびっくりしました。呼び鈴を何度か鳴らすと彼は出てきました。お母さんはお仕事で留守との事。彼は戸口に誰かが立つとセンサーが働き、電気がつくとともに誰が来たのかテレビカメラで写し部屋で確認していたのでした。その装置はみんな彼の手作りでした。
もう一つ驚いたのは、お母さんの鞄に送信器が仕掛けられていて、大体何キロ圏内にいるか常に把握できるようにしていたことでした。彼は母一人、子一人の家庭でした。毎晩お母さんの帰りは真夜中になります。送信機を仕掛けたのは興味本位な面もあったでしょうが、寂しさの裏返しだったのかもしれません。
担任は彼の卒業後の進路について悩んでいました。もちろん学校には出てきていないので、内申点は低く高校進学については本人もあきらめていましたし、学校というところに行く気もしなかったのでしょう。就職するにしても三洋電機が採用してくれるわけはありません。担任はふと通勤途中に見た店のことを思い出しました。それは中古の電化製品を売っている店のことでした。「そうだ、ここなら彼が今やっていることと同じことをして金を得ることができる」
彼にこのことを話すと乗り気で、担任は彼を連れて店に行きました。早速彼は得意技を店主に見せ、店主は彼のはんだ付け技術や電気の知識に舌をまき、即決、その店への就職が決まりました。
卒業して何か月かして、担任がその店に顔を出したら元気にいい顔をして働いていました。その後、担任から新しく別の店を任されて働いているという事を聞きました。
彼についての情報はここで途絶えます。あれから、かれこれ30年が経過、彼は今どうしているのでしょうか。
(文責 中野 謹矢)