多くの人の人生に大きな影響を与えた中村天風という人物についてこれから何回かにわたって紹介します。
◇1876年に久柳川藩士で大蔵省紙幣寮抄紙局(現・国立印刷局)初代局長であった中村祐興の息子として豊島郡王子村(現東京都北区王子)で生まれ、幼少期を過ごす。
◇その後、福岡市の親戚の家に預けられ、幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習ったため英語に堪能になる。
◇修猷館中学に入学し、柔道部のエースとして活躍していたが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐に出かけた際出刃包丁を抜いて飛びかかってきた生徒を刺殺。これが原因で退学処分を受け、1892年(明治25年)に玄洋社の頭山満のもとに預けられることになるが、ここで頭角を現し、〝玄洋社の豹〟と呼ばれ恐れられるようになる。
◇16歳の時に頭山満の紹介で帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり満州へ赴き、日露戦争が迫った1904年に青龍刀を持つ馬賊と切り合いを演じ「人切り天風」と呼ばれる。
◇スパイとして活動中、コサック兵にとらわれ、銃殺刑に処せられるところを部下に救出され、九死に一生を得る。当時、日露戦争に備えて参謀本部が放った軍事探偵113名のうち生き残ったのはわずか9名であった。
◇このようなさまざまな修羅場を超えて帰国するも、ある日の朝突如として喀血し、当時不治の病として恐れられていた奔馬性結核に感染していることが判明。そこで北里柴三郎をはじめ著名な医者にさまざまな治療をしてもらうも病状が回復する兆しはなし。これまで死ぬことを全く恐れていなかったにも関わらず、30歳になって初めて感じたことのない不安に襲われ、医学、宗教、哲学、心理学の書物を読みあさる。≪続く≫
(文責 中尾直史)